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2008年10月

悲しみを越えて

一昨日、亡くなられた妊婦さんのご主人の会見をたまたまテレビでみました。

安心して産める社会に=「誰も責める気ない」-死亡妊婦の夫が会見

終始、「誰も責める気はない」「彼ら(病院の医師たち)が傷つかないようにしてほしい」「傷ついて辞めたら意味がない」と淡々と語り続けたご主人の言葉に、私も心を動かされました。

今回、ご遺族は病院や医療システムについて非難し、糾弾し、悲しみをあらわにしても当然の状況であったと思います。
ご主人が一切それをせず、亡くなった奥様について「よくお腹の子どもに話しかけていました。信頼できる、優しい人でした」と語ったとき、私は、このご夫婦は、本当に今まで最大限、ともにいる時間を大事にすることができた方たちなんだ、と感じました。
やりきれなさや怒り、悲しみは当然おありでしょうが、それでも、人間は「自分は、最大限できることを行った」と思える時、意外に穏やかでいられるものです。ご夫婦は真に愛で結ばれ、お互いをできるかぎり大切にすることができたので、ご自身たちが過ごした時間についての悔いはなかったのかもしれない、と思いました。

もうひとつ、何か本当に世界を変えたいとき、変化を求め声高に叫んだり非難することはたいして効果がなく、その衝動をぐっとこらえて、このように本当に問題を直視しようとする態度を人が取るとき、世界はそれに耳を傾けるのだ、ということも感じました。
ご主人の「医師が傷ついて辞めて、産婦人科医が減ったら意味がない」という言葉はまったくの真実です。ご主人は個人的な悲しみを越えて、問題の本質を見ることができる方でした。

医療者としてこのご主人の言葉はとても救われるものでしたが、このような態度を取れる方はそう多くないし、また無理にはとる必要もなく、患者さんやご家族が悲しみや怒りをあらわにされてもそれをきちんと受け止めることができることも含めて医療者の仕事であると思っています。私もまだ不十分です。
構造的な問題は政府や自治体も含めて問題を直視し、動いていただかないと仕方ないのでここでは述べませんが、個人的には上記のようなことを感じました。ご冥福をお祈り申し上げると同時に、今後自分にも何ができるのかを考えていきたいと思います。

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存在の周りに-「奇跡のリンゴ」

ちょっと前になってしまうのですが、「奇跡のリンゴ」という本を読みました。

青森のリンゴ生産者、木村秋則さんが無農薬でのリンゴ栽培に成功するまでの苦闘の記録です。NHKの番組、「プロフェッショナルの流儀」でもとりあげられました。
と、ひとことでくくってしまえばそれで終わるのですが、これがものすごい身体的、精神的、経済的な苦難の連続で。読んでいるだけで胸が痛くなりました。

恥ずかしながら知らなかったのですが、リンゴって無農薬での栽培はほぼ不可能だったんだそうです。もともとリンゴはクラブアップルという渋くて食用にならないヨーロッパの野生種で、そこから品種改良で生まれたものだそうで、ものすごく病害や害虫に弱いのだとか。この本を読むと、いかにリンゴという果物が「温室育ち」であるか、よくわかります。

(以下ネタバレ注意です)

それに挑んだ木村さん。そのきっかけがすごい。
初めは大規模で機械化された大農法を行うつもりだった木村さんですが、本屋さんに行って農法の本を買おうとしたら、隣の本も一緒に落ちてきてカドがつぶれてしまったので仕方なく買った。それが、福岡正信さんの自然農の本だったのです。それを読んで、木村さんは感銘を受け、軽い気持ちで始めたとのことです。

しかしリンゴの無農薬栽培は思った以上に難しく、農薬散布をやめた途端、リンゴは咲くべきでないときに花をつけ、やがて虫に覆われ、あっという間に葉を落としてしまいました。酢を薄めて散布したりと農薬に代わるものを模索しましたが、焼け石に水。それから妻子と妻の両親を巻き込んだ8年の苦闘が始まります。

借金がたまり、子供の学用品もままならず、どうにもならなくなったあるとき、木村さんは自らの命を絶つことを決意して、山に入りました。

そこで見たのは、青々とした葉をつけ、月の光に照らされたリンゴの木。

なぜこの木はこんなに元気なんだろう、と思った木村さん。よく見るとその木はリンゴではなく、ドングリの木でした。周囲を見てみると、木の周りは下草に覆われ、やわらかでふかふかした土に太い根を張っていることに気づきました。

その瞬間、木村さんは自分は農薬の代わりをただ探していただけだったことに気がつきました。木は周囲の環境とともに生きているもの。自分はそれに気づいていなかったと。

そこから木村さんの真のリンゴ無農薬栽培の試みが新たにはじまりました。草は刈らず、なるべく自然の環境を保ち、リンゴがしっかりした根を張ることのできる土づくりから始めました。そしてひたすら、リンゴと周囲の植物、虫の生態などを観察し、対処しました。数年の試行錯誤のち、リンゴはようやく実をつけました。そのリンゴは、今までの農薬を使ったリンゴより、はるかに甘く、香りたつ果実だったのです。

木村さんのリンゴは大人気で、今は幻のリンゴとなってしまっているようです。今年の分は抽選販売でした。

耕さない、除草しない、肥料をやらない、農薬を使わない、自然農のやりかたは、決してただほっておけばいいという楽な農法ではありません。木村さんの農法は福岡正信さんの自然農とはまた異なりますが、それにしてもひたすらじっと作物を観察し、木が求めているものをさりげなく最小限施すという手間のかかるものです。私はこれを真の愛による行為だと思いました。育児なんかも同じかもしれません。

人間はひたすら一途に努力してあらゆる試行錯誤をして、もうできることがないと思うまでやったときに初めて天から大きな実りを与えられるのだなと思いました。「人事を尽くして天命を待つ」ということの意味が、ここでは現実になっています。決してあきらめなかった人だけが、天からの果実を手にすることができます。

大切なのはひとつのやりかたにこだわるのではなく、一歩引いて全体を見て、あらゆる可能性を考えてみることかと思います。

無農薬リンゴ栽培の鍵は、リンゴの木だけでなくリンゴの周囲の環境、つまり下草や土、虫たちにありました。

「手を描きたければ、手ではなく手の周囲の空間を描きなさい」というアドバイスをどこかで読みましたが、それを思い出しました。私たちは周囲の環境の中で生きている存在なのです。存在の周りや背後に本質があるのかもしれません。

最後に興味深いエピソードをひとつ。リンゴがいっせいに枯れかけたとき、木村さんはリンゴの木1本1本に「枯れないでくれ」と声をかけて回りました。隣の人に見られるのが恥ずかしく、隣の畑との境の木には声をかけなかったのですが、声をかけなかった木だけが枯れてしまったそうです。

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2つの極のあいだで

先週、森美術館で行われているアネット・メサジェの展覧会「聖と俗の使者たち」に行ってきました。
アネット・メサジェは写真や絵、言葉、布のオブジェなどを組み合わせたインスタレーションを中心とする現代芸術のフランス人女性アーティストです。
作品自体はぬいぐるみや少女の服などわりとガーリーなアイテムで構成されているのですが、つめものが抜き取られて無造作に配置されていたり、体の一部のような巨大なぬいぐるみが天井から大量にぶらさげられていたり、何とも不気味でグロテスク。

圧巻だったのは、「カジノ」という作品です。ヴェネチア・ビエンナーレ2005で金獅子賞を受賞した、ピノキオの物語をテーマとする3部作の一部を再現しています。
テーマはピノキオが飲み込まれたサメのお腹の中。部屋一面に、赤いシルクの布が敷き詰められているのですが、そこに奥の扉から風が流れ込んできて、赤いシルクが腸の蠕動のようにはためき、うごめく仕掛けになっています。シルクの下で、海底の生物がかたどられたオブジェがぼんやりと燐光を放ち、本当にサメのお腹の中にいるような幻想的な感覚に陥ります。当然、赤い部屋は子宮のイメージでもあります。

メサジェの作品は不穏です。妙に生々しく、腹部のあたりがやや不快になってきます。生と死の生々しさを同時に喚起するアートです。
しかし、私はこれらの作品をとっても女性的だと思うのです。

私たちは日々、人間的な知性と動物的な本能の間を揺れ動いています。お腹が空いても、フライパンから手づかみで食べるのではなく、食器にもりつけ、家族がそろうまで待ち、いただきます、を言って食べるのが人間的な行動です。ですが時にはあまりにも空腹で、鍋からそのまま食べたくなることもあります。その衝動をなんとか乗り越えて日々の人間の生活は維持されています。

私の偏見かもしれませんが、どちらかというと女性のほうが、生命力という点では男性に勝ります。子どもを生み育てる分、動物的ないのちの力がやや強く残されているように思います。たとえば月経にしても、血はふき出るし、その前後の体調の変化といったら人によっては我慢にも限界があり、自分の理性を超えた動物的な体の力に強く振り回される感じがします。

原始時代には、「元始、女性は太陽であった(平塚らいてう)」とこの女性の生命力はあがめられたのだと思いますが、現代のように知性と秩序が重んじられる時代においては、むしろ脅威となります。そのため、近代以降、社会は女性の生命性をなるべく見えないようにして、人形や人足のように扱ってきました(もしくは単なる欲望の対象にしました)。

しかし女性の生命性はもちろん抑えきれないので、抑えるのが美徳とする社会と、自分自身の中で躍動する衝動の間で女性は苦悩することになります。徹底的に抑えられていた時代より中途半端に自由な時代になった今、かえってそれらが色々なひずみを起こしてきています。

基本的に女性は男性より重い精神疾患になりにくいのですが、中にはほぼ女性の病気、というものもあります。たとえば摂食障害。摂食障害の子達は、世間に従わねばならない、という意識が人一倍強い人たちです。メディアで美しいとされる姿に近づこうとして行うダイエットと、食べたい欲求の狭間で、生命にとってもっとも基本的な行動である「食べる」という行動が次第におかしくなり、拒食と過食が交互にあらわれます。
結局これは「人為」vs「自然」の戦いであるように見えます。

摂食障害の女子たちにとって「to eat , or not to eat」は大問題なのです。食べたい、でも太りたくない。でも本当は、食べるか食べないかはどうでもいい話で(命に別状なければ)、本当の問題は「自分がほんとうはどういう人間なのかを知り、それを自信をもって選ぶ」ことにあります。「人為」だけでもなく「自然」だけでもない、その間にいる「ただひとりの私という存在」を自信を持って愛することができれば、食欲も体型も自然に落ち着くところに落ち着きます。

どうせ自分以外のものにはなれないんだから、自分でないものになろうとする戦いはもうやめたらいい。それを体感するには、疲れ果てるまで戦うのもよいのかもしれません。でも女性も男性も、体力のある時代はそう長くないし、明日は今日より年をとっている。だとしたら、今やめてもいいんじゃないかなあ。でも頭でわかっても、体が納得しないのが人間なのかもしれません。日々そんなことを考えています。


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