心と体

病むことはエネルギー

今日診療中にふと、「私は患者さんたちがうらやましい。彼らは病の中に愛を担っている」というメッセージが来ました。
そのときに私はなぜか、自分は患者さんたちを羨ましいと思っているのだと感じました。

野口整体の創始者、野口晴哉先生の言葉に「病むことは力である」というものがありますが、病気というのはある意味確かに力でもあります。
何かの刺激に対して、必ず生体は反応しています。通常は、細菌感染に対して熱が出たりするように、治る方向に働きます。しかし、アレルギーのように、間違ったものに過剰に反応してしまったりすることもあります。しかし間違っているといえども、やはりこれは、「力」の結果なのです。

うつも、よく「エネルギーを使い果たしてしまった状態」と表現されますが、実はそうではなくて、「エネルギーが滞ってしまっている状態」です。うつは「鬱滞」の「鬱」です。落ち込むこともまたエネルギーなので、つまってしまっているだけなのです。
もしエネルギーが本当になくなってしまっているときは、何の感情も、不調さえも感じずにただ寝ているだけになるでしょう。お年寄りで時々こういう状態の方もみられます。

このつまっているエネルギー、間違ったところで発揮されてしまっているエネルギーを、本来の健康なかたちにもどすことが治療であるといえるでしょう。本来、病むことに使っている力は別のかたちで使えるものなのです。お金みたいなものといっていいでしょうか。

私が一番好きなシュタイナーの言葉に、「物質は濃縮された光、魂は薄められた愛である」という言葉があります。
ここで言う「魂」は「感情や思考などの精神活動」という意味なのですが、どのような魂の活動も、怒りや憎しみなどのネガティヴな感情さえも、本来は愛であり、それが歪んだかたちになってしまっているだけだということです。
そう思うと、怒りをかかえた人に出会っても、あるいは自分自身の怒りに対しても、ではこの感情をもとの愛に変えていくにはどうしたらよいのか、と考えることができます。

光となった物質を人間の闇となった部分にもたらし、愛をもって魂をあたためること、これが治療の原則であるとシュタイナーは言います。
普段の日常の中で忘れがちなので、ことあるごとに思い出したいと思います。

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書評-心もからだも「冷え」が万病のもと

去年出た東京女子医大附属青山自然医療研究所の川嶋朗先生の本。おすすめです。

目次 

第1章 働き盛りの男たちをむしばむ“冷え”
第2章 日本中が冷えている
第3章 セルフチェック―あなたはどのくらい冷えている?
第4章 “冷え”はこうしてがんや病気になる
第5章 心も冷える!
第6章 キレる子どもは冷えている
第7章 “冷え”が男をおびやかす
第8章 冷える生き方していませんか?
第9章 さあ、温めて“冷え”退治!!
第10章 統合医療の現場から―“冷え”を根治するさまざまな医療

西洋医学の知識と東洋医学の智恵がバランスよく紹介されていて、川嶋先生の「両方のいいところを取りいれよう」というスタンスがよく出ています。心のことにもかなりページをさいて強調されています。
うつと癌は両方とも「冷え」が大きくかかわっている、というのは私も納得です。ただ、うつの人はどこかで「気が滞っている」ので、ただ物理的に暖めてもつまっているところで熱が引っかかってしまってかえって熱がかたよって苦しくなってしまうこともあります。やはり、「つまりを抜きながらあたためる」のが基本かと。
「心の冷えとりは、話を聞くこと」という川嶋先生のスタンスは素晴らしいですね。それが心の「つまり取り」兼「あたため」になると思います。

10章は補完代替医療(CAM)の紹介としてもすごく簡潔にまとまっています。この説明を参考にさせていただこうかなーと思ってしまいました。9章のあたため法色々の紹介もすぐできそうなものばかりですよ。
私も自他ともにみとめる冷え症なので、最近は5本指くつしたと湯たんぽいれて寝てますが、確かにからだはだいぶラクです。この本にも指もみや湯たんぽやペットボトルによるあたため法(腿をあたためる)が出ていますが、おすすめは湯たんぽをお腹の上にしばらく置くこと。特に女性は夜寝る前にお腹をあたためることと、お腹を円を描くようにマッサージすることがおすすめです。手のひらで本当に軽く触れるくらいで(むしろ押さないで)オッケーです。寝る前に膝を立ててお腹の緊張をとりながら行うと、ぐっすり眠れます。

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しっかり見よう。

12/5のNHK解体新SHOWで、「フィギュアスケートの選手はなぜ目が回らないのか」というテーマをやっていました。

実験に参加したのは男子スケーターの本田武史さんで、回転いすで50回回っていましたが、そのあとすぐ立ち上がってまっすぐに歩けていました。他の人は10回ほどでももう眼振が出てふらふらになって歩けず。

確か、これトリビアの種で安藤美姫選手がほとんど同じようなことをやってましたが、やっぱり彼女も目が回ることなくまっすぐ歩けていました。
このときは「慣れ」という説明でしたが、今回はもっと詳しい説明が。フィギュアの選手は「一点をしっかり見て」いたのです。

普通からだが回転すると耳の中の三半規管と脳の反射で目が反射的に動きます。からだが止まっても、三半規管はまだすぐなれないので、目はしばらくぶるぶる動き続けます(これを眼振といいます)。このために目が回ると感じます。
ですが、ものすごくがんばって一点を凝視すると、目が止まります。このため、目が回ったと感じにくくなります。

本田さんの場合、カメラの位置を定点に決めて、なんと回転の間目を閉じてまたカメラの位置で目を開けるという高度なワザでした。つまり、回転の速度をからだで計って、カメラの位置以外では目を閉じ、カメラの位置ごとに目を開けてカメラを見るという、スケート選手ならではの名人芸。

私は以前ダンスをやっていたのですが、目が回るのでターン挫折しました(^^;)
この番組をみて、しっかり一点をにらみつけるようにしてもう一度ターンを何回かしてみたところ、目はつりそうでしたが確かに気持ち悪くなる度合いが減りました。
なんだー、ものすごくしっかり見ればよかったんですね。目が筋肉痛になりそうだけど。

でも、これと同じようなことが人生でも起きているんじゃないかと思いました。
めまぐるしく毎日色々なことが起きて、飛ぶように時間がすぎて、まるで回転いすにのせられているような気がすることがあります。目先の出来事で目が回りそうですが、自分の行く方向、行きたい方向をしっかりみていれば、やはり目は回らないのではないかと。
情報の多い昨今では、過ぎ去る時間に流されないように、目がつりそうなほど一点をしっかり、きちんとみる必要があります。でも、しっかり見れば、目が回ることは少なくなります。
記憶力に関しても、まずは対象をしっかり見ることが一歩です。「覚えが悪い」と嘆く人は、自分の内面に意識がいってしまって、しっかり見ていない可能性があります。

来週の目標は、「しっかり見ること」になりそうです。

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批判しない、恨まない、判断しない

このところ1週ずつテーマを設けて日々を送っています。
最近の3週間はこんな感じで、
1週間め: 「批判しない」
2週間め: 「恨まない」
そして今週は、「判断しない」です。

私はわりと人を批判しがちだったのですが、最近急に人を批判している自分がほんとに恥ずかしくなり、心からもうやめたい!!と思いました。
もう絶対批判はしない!と決め(できるかどうかはさておき、「決めた」のです)、むくむくと批判がわきあがってきたら、「いかんいかん」と気づくようにします。
それから自分の中でどういう思い込みが、その人の批判につながっているのかを考えます。だいたいは、自分の中に劣等感や、変な義務感(「私が世界を救わなければいけない」とか)があることが多いです。気がついたら、それらを手放します(できるかどうかは別として手放すと決めます)。

そのようにして、批判するのをとりあえずやめると、やっぱりラクでしたhappy01

続けられるかどうかはわかりませんが、なるべく意識して続けたいと思います。

先週は恨まないと決めました。

そして今週の課題は「判断しない」。

これは結構むずかしい。というのは、医者は常に判断を求められる仕事で、ほとんど判断が「職業病」です。精神科の病院にいたときは、患者さんのおこづかいの額まで判断を求められ、「そんなの本人と決めてよ~」と思いながら「1日100円」とか「判断」してました。しかしなぜ150円じゃないのか、と聞かれても困りました(^-^; あまり一般的な話ではありませんが。

私たちはときに自分の器を越えて判断して(させられて)いないでしょうか?この人はいい人だか悪い人だとか、これをすべきだとかすべきでないとか。メディアの報道などでも、「年金テロ」とか、そんなに早く判断していいの?と思うことが多々あります。

もちろん判断は生活上必要なことで、だいたいは早いほうがよいのですが、少なくとも善悪に関しては、あまりにも早く、独断で、少ない情報で判断していると、だんだん疲れてきます。なるべく「これはいい」とか「悪い」とか決める前に、何が起きているのか、くもりのない目で見ることができるようになりたいと思います。

というわけで、なるべく軽率な判断をしない練習中ですwinkこれも訓練ですね。

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自分のため=人のため=最強

放送のあとすぐにブログに書こうと思ったのに、ものすごーく時間がたってしまって大変恐縮ですが、やはり書いておきたいなーと思い書くことにします。
11/3のカンブリア宮殿「障害者に働く喜びを」ゲスト・日本理化学工業会長、大山泰弘さんの回。
http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/bn/081103.html

日本理化学工業は川崎市にあるチョークの全国シェア3位の会社です。この会社は障害者雇用の草分け的存在で、こちらの従業員は74人のうち54人が知的障害者の方だそうです。

日本理化学工業が知的障害者を雇用することになったのは昭和34年。養護学校の先生たちが、卒業を控えた15歳の女子生徒2人の就職を頼みにきました。最初は断ったものの、「雇ってもらえないなら、この子達は一生働く経験をせずに施設で一生を終えるんです、実習だけでもさせてやってもらえませんか」と先生方に熱心に頼まれた大山さんは、とりあえず2週間の実習だけなら、ということで受け入れたとのこと。しかし彼女らの一生懸命働く姿に大山さんも従業員も心打たれ、採用したそうです。

以下はインタビュー記事より。

「私は、とりあえず2人雇ってみたものの、うちで働くより施設でゆったりと暮らす方がきっと楽なはずだと考えていたんです。でも、ミスをしてなかなか言うことを聞いてくれないとき、「施設に帰すよ」というと、彼らは泣いて嫌がるんです。それが不思議でたまらなかった。それで、ある法事の席で、お坊さんにその疑問をぶつけてみたら、私の予想に反して「当たり前だ」と言われたんです。そして、人の幸福のうちの「人に褒められること、人の役に立つこと、人に必要とされること」の3つは、仕事では得られるが、施設では得られないんだと言われたんですね
(中略)

 これらの言葉を受けて、ようやく気づいたんです。つまり、人間にとって「生きること」とは、誰かに必要とされて働き、それによって自分の食い扶持を稼いで自立することなんだということに。そして、その場を提供することこそが、企業の存在価値であり社会的使命なんじゃないかということが、自分の中に真理として根付いたんです。それからですね、障害者雇用に積極的になったのは。」(イノベーティブワンのインタビューより)

会社は現在、キットパスという「消せるクレパス」を開発し売りこみ中です。窓ガラスとか冷蔵庫の扉とか滑らかな面なら書いても水ぶきんで簡単に消せるそう。つるつるした場所があればどこでもホワイトボードになりますね!

番組中で大山さんは、「障害者の人たちにいつも私のほうが教えられている。彼らと歩めて、本当に私は良い人生を送らせてもらっている。いつも感謝している」ということをきっぱりと言いきりました。

「お釈迦様が、羅漢という修行最高段階の地位に、知的障害者の「周利槃特(しゅりはんどく)」を選んだとき、「彼の掃除をしている姿を見れば、皆が手を合わせたくなる。あれは彼の無言の説法なんだ」とおっしゃったといいますが、いまとなってみれば、その意味がよくわかります。私は彼らの無言の説法を受けながら、少しずつ成長してきたんです。いま障害者雇用について一角の意見が言えるのも、彼らのお陰ですからね。彼らに生かしてもらった、本当に充実した張り合いのある人生を与えてもらったと心から思っています。」(イノベーティブワンのインタビューより)

こういう言葉は飾ろうと思えばいくらでも善意の衣装を着せることができます。しかし私が感銘を受けた(というよりショックを受けた)のは、大山さんはこういうことを、特別に力説もせず、善意や熱意を強調することもなく、まったく普通のことのようにさらりと行ってのけたことでした。

もとは大山さんも特に障害者に対してあたたかな思いをもっていたわけではなく、また障害者雇用を福祉とかノーマライゼーションの観点から始めたわけでもありません。つまり「普通」の人でした。続けるには苦しいことも山のようにあったと思います。しかし、それらを越えて、「人のため」を「自分のため」と全くイコールにできたということ、それが大山さんの言葉の強さやブレのなさを生んだのではないかと思います。
「人のため」だけでは続けるのにものすごくエネルギーがいるし、意外に自分の価値観を押し付けてしまったり、結構自分のエゴが入ってくるものです。人はまず「自分のため」に動くのが自然です。しかし、「自分のため」だけでも案外ものごとを続けることは難しいものです。「自分のため」から始めて、「自分のため」を「人のため」とまったくイコールにできた人が、余分な力も抜けて最強なんじゃないかと思いました。

余談ですが、大山さんを見ていて「誰かに似ているなあ」と思ったのですが、ヤミ金と戦う宇都宮健児弁護士でした。別にお顔はそんなに似ていないのですが、なんというか、独特の「油が抜けてる」感というか。さらりと強い感じが。
宇都宮健児さんは借金問題専門の弁護士で、以前みたテレビ番組で「借金問題を解決してもそのまま料金を払わずに逃げて、その後また借金して先生なんとかしてくれとなきついてくる人もいまして(笑)」と話していました。司会者が「それでやっていけるんですか?」と聞いたら、「結構なんとかなるもんですよ(笑顔)」ときっぱり言ってらっしゃいました。
「弱い立場の人を守ろう!」というのは口で言うのは実は簡単で、結局そのために本当に行為するか、またどんな方法で行うかで人間性の大きさが見えると思うのですが、このおふたりは「弱者を守ろう!」とかひと言も言わずに、まずそれがどんな方法で可能なのか調査して、見えたら黙って行動してしまうような印象です。
私もこういう不言実行に憧れます。でもブログで書いてる時点でだめじゃん、て気も(^^;)

ぜひ以下のリンクもごらんくださいませ!とても素敵な記事です。
大山泰弘さんインタビュー 知的障害者を活かし、 生かされるチョークメーカー(イノベーティブワンのサイト)
宇都宮健児さんインタビュー 魂の仕事人・絶望の淵から2度這い上がった落ちこぼれ弁護士の逆襲(人材バンクネットのサイト)
人生も仕事もやり直せる 弁護士・宇都宮健児 NHKプロフェッショナル仕事の流儀

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爪と注意力

先週、ドイツのシュタイナー教育の先生の講義を聴いたのですが、その中で印象的だったのが、「ADHD(注意欠陥多動障害)の子どもの注意力を強めるには、爪の手入れをよくする」という話でした。

爪は特に注意力とかかわっているのだそうで、伸びすぎないようにまめに切るか整え、とくに甘皮を押して、爪の付け根の半月をよく出したほうがよいそうです。足もまたしかり。
確かに野球のピッチャーなんかはもっとも繊細な指先を要求される職業のひとつですが、爪を切らずにやすりでこまめに削ったりすると聞きます。爪って伸びてくると気持ち悪い感じがして、私は伸ばせないほうなのですが、知らず知らずのうちに注意力とかかわっているのかもしれません。伸ばしている人でも、マニキュアしていたりすると、はがれないように気をつけてものをさわりますもんね。
ADHDの子は特に感覚が過敏な傾向があるので、その他にも着る衣服がちくちくしていないか、照明が明るすぎないか、音がうるさくないかなど、環境に気をつける必要があります。もちろんこれらは対処法の一部に過ぎませんが、意外に重要なことかもしれません。




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2択の正解は3択目

患者さん(特にうつの人)と話していると、
「やるべきか、やらないべきか、どうすればいいか」
「やるべきなのに、やれない」
「やるべきなのに、やりたくない」
というような話が多く出てきます。

だいたい「やるか、やらないか」という2択をおいて、その決断がつきかねて迷う、一度決断してもなお、自分のとらなかったもう1つの方の選択肢がよかったんではないかと後悔する、というパターンが多いようです。
ですが、2択で迷った際は、そもそも2つの選択肢の置き方が偏っている場合があります。
「やるかやらないか」で「やらない」をとった場合、うつになる人は「やらない=絶対やらない」と考えがちなのですが、「やらない=今はやらない」と考えることもできます。

人生における選択は、白黒ではなくグレーのグラデーションで、しかも可塑的です。ほとんどのことが後からでもいくらでもやり直しがききます。
「やる」か「やらない」かは実は2つだけの選択肢ではなく、「少しだけやる」「あとでやるかも」「今はやらない」「これがこうなったらやる」「結論が出ないので棚上げ」「タイミングが来たらやる」「めんどくさいので明日考える」・・・など無限にバリエーションを出すことができます。2択で迷った場合、正解はそれ以外の3択目にあると思った方がいいです。

どんな決断でも、決断しないよりはいいといいます。「今決断しない」「なりゆきにまかせる」という決断も、特に自分の判断力に自信がないときには、ありかと思います。だいたい迷うときというのは、どちらに行っても大して変わらないか、もしくは今早急に結論を出すべきではない、ということが多いような気がします。
「決断しない=決断できない」ではありません。この2つは天と地ほどの違いがあります。決断しない、と決断したなら、なりゆきにゆだねると決然と決めたほうがいいです。やるかやらないかで悩むより、自分の中のもやもやを整理するほうを優先すると、おのずと何をすべきかが決まります。そうすると、だいたい最初に迷った選択肢以外が答えだったりします。

To do, or not to do.....or do otherwise  !

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悲しみを越えて

一昨日、亡くなられた妊婦さんのご主人の会見をたまたまテレビでみました。

安心して産める社会に=「誰も責める気ない」-死亡妊婦の夫が会見

終始、「誰も責める気はない」「彼ら(病院の医師たち)が傷つかないようにしてほしい」「傷ついて辞めたら意味がない」と淡々と語り続けたご主人の言葉に、私も心を動かされました。

今回、ご遺族は病院や医療システムについて非難し、糾弾し、悲しみをあらわにしても当然の状況であったと思います。
ご主人が一切それをせず、亡くなった奥様について「よくお腹の子どもに話しかけていました。信頼できる、優しい人でした」と語ったとき、私は、このご夫婦は、本当に今まで最大限、ともにいる時間を大事にすることができた方たちなんだ、と感じました。
やりきれなさや怒り、悲しみは当然おありでしょうが、それでも、人間は「自分は、最大限できることを行った」と思える時、意外に穏やかでいられるものです。ご夫婦は真に愛で結ばれ、お互いをできるかぎり大切にすることができたので、ご自身たちが過ごした時間についての悔いはなかったのかもしれない、と思いました。

もうひとつ、何か本当に世界を変えたいとき、変化を求め声高に叫んだり非難することはたいして効果がなく、その衝動をぐっとこらえて、このように本当に問題を直視しようとする態度を人が取るとき、世界はそれに耳を傾けるのだ、ということも感じました。
ご主人の「医師が傷ついて辞めて、産婦人科医が減ったら意味がない」という言葉はまったくの真実です。ご主人は個人的な悲しみを越えて、問題の本質を見ることができる方でした。

医療者としてこのご主人の言葉はとても救われるものでしたが、このような態度を取れる方はそう多くないし、また無理にはとる必要もなく、患者さんやご家族が悲しみや怒りをあらわにされてもそれをきちんと受け止めることができることも含めて医療者の仕事であると思っています。私もまだ不十分です。
構造的な問題は政府や自治体も含めて問題を直視し、動いていただかないと仕方ないのでここでは述べませんが、個人的には上記のようなことを感じました。ご冥福をお祈り申し上げると同時に、今後自分にも何ができるのかを考えていきたいと思います。

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2つの極のあいだで

先週、森美術館で行われているアネット・メサジェの展覧会「聖と俗の使者たち」に行ってきました。
アネット・メサジェは写真や絵、言葉、布のオブジェなどを組み合わせたインスタレーションを中心とする現代芸術のフランス人女性アーティストです。
作品自体はぬいぐるみや少女の服などわりとガーリーなアイテムで構成されているのですが、つめものが抜き取られて無造作に配置されていたり、体の一部のような巨大なぬいぐるみが天井から大量にぶらさげられていたり、何とも不気味でグロテスク。

圧巻だったのは、「カジノ」という作品です。ヴェネチア・ビエンナーレ2005で金獅子賞を受賞した、ピノキオの物語をテーマとする3部作の一部を再現しています。
テーマはピノキオが飲み込まれたサメのお腹の中。部屋一面に、赤いシルクの布が敷き詰められているのですが、そこに奥の扉から風が流れ込んできて、赤いシルクが腸の蠕動のようにはためき、うごめく仕掛けになっています。シルクの下で、海底の生物がかたどられたオブジェがぼんやりと燐光を放ち、本当にサメのお腹の中にいるような幻想的な感覚に陥ります。当然、赤い部屋は子宮のイメージでもあります。

メサジェの作品は不穏です。妙に生々しく、腹部のあたりがやや不快になってきます。生と死の生々しさを同時に喚起するアートです。
しかし、私はこれらの作品をとっても女性的だと思うのです。

私たちは日々、人間的な知性と動物的な本能の間を揺れ動いています。お腹が空いても、フライパンから手づかみで食べるのではなく、食器にもりつけ、家族がそろうまで待ち、いただきます、を言って食べるのが人間的な行動です。ですが時にはあまりにも空腹で、鍋からそのまま食べたくなることもあります。その衝動をなんとか乗り越えて日々の人間の生活は維持されています。

私の偏見かもしれませんが、どちらかというと女性のほうが、生命力という点では男性に勝ります。子どもを生み育てる分、動物的ないのちの力がやや強く残されているように思います。たとえば月経にしても、血はふき出るし、その前後の体調の変化といったら人によっては我慢にも限界があり、自分の理性を超えた動物的な体の力に強く振り回される感じがします。

原始時代には、「元始、女性は太陽であった(平塚らいてう)」とこの女性の生命力はあがめられたのだと思いますが、現代のように知性と秩序が重んじられる時代においては、むしろ脅威となります。そのため、近代以降、社会は女性の生命性をなるべく見えないようにして、人形や人足のように扱ってきました(もしくは単なる欲望の対象にしました)。

しかし女性の生命性はもちろん抑えきれないので、抑えるのが美徳とする社会と、自分自身の中で躍動する衝動の間で女性は苦悩することになります。徹底的に抑えられていた時代より中途半端に自由な時代になった今、かえってそれらが色々なひずみを起こしてきています。

基本的に女性は男性より重い精神疾患になりにくいのですが、中にはほぼ女性の病気、というものもあります。たとえば摂食障害。摂食障害の子達は、世間に従わねばならない、という意識が人一倍強い人たちです。メディアで美しいとされる姿に近づこうとして行うダイエットと、食べたい欲求の狭間で、生命にとってもっとも基本的な行動である「食べる」という行動が次第におかしくなり、拒食と過食が交互にあらわれます。
結局これは「人為」vs「自然」の戦いであるように見えます。

摂食障害の女子たちにとって「to eat , or not to eat」は大問題なのです。食べたい、でも太りたくない。でも本当は、食べるか食べないかはどうでもいい話で(命に別状なければ)、本当の問題は「自分がほんとうはどういう人間なのかを知り、それを自信をもって選ぶ」ことにあります。「人為」だけでもなく「自然」だけでもない、その間にいる「ただひとりの私という存在」を自信を持って愛することができれば、食欲も体型も自然に落ち着くところに落ち着きます。

どうせ自分以外のものにはなれないんだから、自分でないものになろうとする戦いはもうやめたらいい。それを体感するには、疲れ果てるまで戦うのもよいのかもしれません。でも女性も男性も、体力のある時代はそう長くないし、明日は今日より年をとっている。だとしたら、今やめてもいいんじゃないかなあ。でも頭でわかっても、体が納得しないのが人間なのかもしれません。日々そんなことを考えています。


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30代以外は、信じるな。- Don't trust anyone other than in their thirties -

*注: このエントリは30代以外の世代の方には受けが悪い内容が含まれています。30代以外の方は読まないでください!

私は今33歳です。
こころの診療をしていると、現在うつの主流世代は30代。以前(10年ほど前までかな?)はうつ病は40-50代で心身がパワーダウンしてきたときの病気であったわけですが、今は30代が圧倒的に多いです。休職も30代が多い。

私自身のことを考えると、どうも昔から、今の40代以上に当たる世代と話していると微妙にかみ合わない気がしてなりません。親の世代と話が合わないのは当然としても、ちょっと上(10歳前後)とも感覚が異なる、というかまあこれも当然といえば当然なのですが、ジェネレーションギャップを感じます。

思えば今の40代(アラフォーか?)以上ってバブルを知ってる世代です(おいしい思いをしたかどうかは別として)。思うに、バブルまでの戦後世代って、ある程度「世間はこういうもんだ」という価値観を共有しているように思います(どんな職業ついてても)。
でもわれわれの世代は、「世間はこんなもんだ」と言われて育ったけど、そう言われた世間と今まったく違うぞオイ、って感じ。だって私が高校生のときにバブルははじけ、就職は氷河期、東大出ても正直幸せとは何の関係もないんだ!とわかってしまったジェネレーションですもん。

では今の20代はどうかというと、彼らは高校、大学生という多感で思いきった行動も可能な時期にインターネットがもうありました。欲しい情報や人とつながれた「グーグル世代」なんです(もちろんひとくくりにするのは乱暴ですが)。
私がネット導入したのは1996年だったと思いますが、この頃私はもう大学4年。医学部だったからあと2年学生でいられましたが、まだこの頃はもちろんブロードバンドなんてなく、ネットの情報もものすごく少なかったです。

正直「なんか損した感」はあります。30代のうつ。そりゃなるだろう。だってわれわれは、「上の言うとおりにしてもうまくいかず、下ほどの情報も持ってない」世代なんですから。全部自分でどうするか考えないといけない、っていうのはキツイもんです。就職氷河期だったから同期で話そうとしても数も少ないし。

私はまがりなりにも医者になれたのでほんとうに感謝していますが、医師とても「損したジェネレーション」は例外ではありません。というのも、私の卒業時は自分の出身大学の大学病院に御礼奉公で9割以上が入局しました。しかしその後臨床研修制度が導入されて医局制度は崩壊。卒業後すぐに入局しなかった私は変人扱いでしたが、いち早くその流れからドロップ気味となったのが今はラッキーかも・・・です・・・。

このように変化と過渡期の波をもろにかぶっている私たち30代。
しかし!30代は逆にいえば、「すべての既成概念から自由でいられる」はずなんです。
だって私たちの上の世代の価値は崩壊し、かといってネットの強大な力にもどっぷり支配されていないはずですから。だから、すべての既成の価値から自由な新しい価値のしくみを創れるのは今の30代だと確信しています。
私は「世界はこんなもんだ」という言説に対して、以前は「そんなもんなんですかねー」と同調していましたが、今では「ほんとうにそうなのだろうか?別の考え方、やり方はないのか」と考えるようになりました(たいていあります)。

もちろんジェネレーションより個人の差のほうが大きいですから、20代や40代以上がみんな上に書いたような感じだというわけではありません。でもどの業界の人(スピリ チュアル系含む)と話していても、自分の過ごした時代背景の影響はみな受けている気がします。私もこんなエントリ書いているからには逆にジェネレーションに縛られているともいえるわけですが。
しかし逆にいえば、そのことに気づきさえすれば、どの世代の人たちも自由になれる、ということです。

すべての限界は越えられる。しかしそれにはクールな知恵と、熱い情熱が必要です。自分の中のその存在に気づいて、発揮さえすれば、限界はないと思います。

タイトルは私のこよなく愛するムーンライダースの曲「Don't trust over thirty - 30以上は、信じるな」をもじって。

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これから世界が進む方向

これから世界が進む方向は、こんなものではないかと、勝手に思っています。

- 「量」から「質」へ
- 「力」から「価値」へ
- 「物質」(空間)から「時間」へ
- 「物質的価値」から「本質的価値」へ

同じ行動をしても、裏にある思いの違いにより結果が大きく変わってくるようになるでしょう。
自分の真の望みを知っていれば、どれだけでも努力することができ、失敗がこわくなくなり、失敗という概念自体が消えるでしょう。今まで失敗をおそれていたのは、それをほんとうには望んでいなかったからです。

空間の価値(目に見えるモノの豊富さ)より時間的な価値(同じ時間でどれだけ価値のある行動をしたか)がより重要になってくると思います。ビジネスの本で時間管理の本が増えているのはそのためだと思います。
物質的価値(どれだけのモノを持っているか、作りだしたか)より本質的価値(どれだけ人のため、自分のために行動できるか)に価値がシフトしていくと思います。お金もパワーもいずれはそこに流れていくでしょう。

特に目新しいことではないですが、そういう傾向がより顕著になってくると考えています。
今から流れを読んで行動できるか、が問われていると思ってます!

トレンドを読むことには自信があります。結構自分が目をつけるものって流行るんです。何せ私は武豊が人気になる前に自分の中で競馬ブームが終わっていたのが自慢(当時中学生でしたけど^^;)。でもくじ運はないので話半分に受けとめてくださいませm(_ _)m


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「アタマ」系?「ハート」系?-知的障害の人たち(2)

知的障害の人の得意分野を探るときに、私は「アタマ系」と「ハート系」に分けています。

「アタマ系」の人は自閉症圏を中心とした人たち。数に強い(数字、日付、時間など)、興味のある分野が限定されているけど深い、などの特徴を持っています。見たもの、聞いたものを正確に再現するのが得意です。ので、データ入力とか、部品の組み立てとか正確に行わなければならない作業にどちらかといえば向いています。得意分野に関しては、普通の人よりパターン認識が得意なので速いです。

人とのコミュニケーションは苦手なほうで、特に人の心を読むのは苦手です。「適当にやっといて」とか「あと少し頑張ろうね」とか言われてもわかりません。このタイプの人にはとにかく具体的な量を示す必要があります。「あと5cm右において」とか「あと3分やりましょう」とかです。

ハート系の人は、ダウン症の人たちなんかが入ると思います(みんなではありませんが)。この人たちはだいたい作業は遅いのですが、まじめでこつこつやります。また、心がこもっています。他の人にも温かみをもって接するので、愛されます。コミュニケーションを大事にする職場だとうまくいきます。パンやお菓子の製造、サービスなどが向いています。変わったところでは、介護などもフィットすることがあるみたいです。

どちらの人も、不思議なことに、自分の得意分野にはまると結構強く、「健常者」より疲れにくかったりします。だからやっぱり自分の得意分野を見つける、伸ばすことが大事ですね!

2つのタイプに分けましたが、どちらかに分けられず、どちらの面も少しずつ持っている場合ももちろんあります。
「健常者」だってそうですよね。こだわらず、柔軟に考える必要がありますが、でもこの人がどのようだったら、この人にとっても周りにとってもハッピーかを考えるとき、目安になるのではないかと思います。

(このへん過去ブログをどうぞ!よく見たらほとんど同じことを書いてますね・・・汗)

ただ実際は、うまく力を引きだそうとするとご本人と周囲に問題が生じてくることが多いのも事実。多くはシステムと周囲の先入観の問題ですが、ご本人の中の恐れが障害になっている場合もあります。
このあたりの整理をするコンサルタントをやってみたいですねー。名づけて、メンタルヘルス・コンサルタント。まあ、ほとんどそのようなことを今もやっているわけですが。

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ひとの能力って?-知的障害のひとたち(1)

定期的に知的障害の人たちの作業所で相談を受けています。が、これが面白い!今してる仕事の中で一番好きかも。

なぜかというと、人間の能力というものについて示唆を与えてくれるからです。

知的障害の人たち(以下、「知的の人」と表記。現場のよびかたです)は以下のような特徴をもっています

1)行動が言葉だ

2)周囲をそのまま反映する

3)「得意なこと」=「できること」だ

1)行動が言葉だ

知的の人はあまりややこしいことを考えない分、行動をみていればその人の内面がわかります。

知的の人は人にもよりますが、自分の気持ちを言葉にしにくい人が多いので、面接をすることに不安があったのですが、内面的なことはさておき生活のスケジュールから入っていけばいいことに気がつきました。知的の人は生活や行動がそのままその人の思いを示しています。さびしければ騒いだり落ち着かなかったり、引きこもるという形であらわれます。

2)周囲をそのまま反映する

知的の人は、自分自身をもちろんもっているのですが、他者と異なる「自分」という意識は普段あまり意識されていないようです。いわば、環境の中になかば溶け込み、周囲を反映します。

周囲の人の気持ちや環境にダイレクトに左右されます。家族が不安であれば家族の不安を反映して不安定になります。

たとえば、一人称の呼び方がかわったりします。たとえば「お姉ちゃんらしくしなさい!」とか「お姉ちゃんでしょ」とか言われたりすると、それまで自分を「私」と言っていたのが、「お姉ちゃんは・・・」と呼び始めたりします。こういう変化がみえたら、「お姉ちゃんでいないと受け入れられない」と思っている可能性があるな、とか推理したりするわけです。

逆にいえば、周囲の人にこのことを伝えて理解してもらうだけで、だいぶ本人も変わります。薬を出すよりずっと効果的です。このへんがやりがいの理由。

3)「得意なこと」=「できること」だ

知的の人は、できることの範囲は狭いのですが、逆にその範囲では能力が突出しています。

「サヴァン症候群」というのをご存知のかたもいるかもしれません。知的障害や自閉症にく特定の分野に限って高い能力を発揮するような人たちです。カレンダー能力(何年の何月何日が何曜日かわかる)とかは私の担当した人にもいました(私の誕生日は金曜日だったそう)。床にこぼれた数百個の豆を一瞬見ただけで正確に何個かわかるとか。これらは特殊例ではなく実際に結構ある話です。数字の能力は自閉症圏の人に多いです。

オリヴァー・サックスの「妻と帽子を間違えた男」に8桁の素数をやりとりする双子の話が出てきます。

二人は数によってコミュニケートします。サックスはこっそり本を見て10桁の素数を言い、二人の会話に参加しますが、1時間後には二人は20桁の素数を言うようになりました。

大切なのは、劣っている能力を伸ばそうとさせるのではなく、得意な能力を伸ばすようにサポートすることです。得意なことは、苦手なことをカバーできるまでに伸びることができます。それに対し、苦手なことはどんなに頑張っても、かける努力に比してあまり伸びないのです。

上の双子も、引き離され、社会活動のための訓練をさせられたあと、この数に対する能力は消えてしまったとサックスは書いています。

このことを知ってから、人間は基本的に得意なことを伸ばしたほうがいいのではないかと思うようになりました。得意なことを十分に伸ばしてこそ、苦手なことに取り組む力も出てくるのかもしれません。

本日の参考文献↓

妻を帽子とまちがえた男 (サックス・コレクション)

妻を帽子とまちがえた男 (サックス・コレクション)

著者:オリバー サックス

妻を帽子とまちがえた男 (サックス・コレクション)

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ほんとうの望みの探し方(2)~おすすめ本

「ほんとうの望みの探し方」のことを考えていたら、ちゃんと合った本が見つかったのでした。

デュボワ思考法  フランソワ・デュボワ

著者はフランス人のマリンバ奏者でマリンバでは貴重なソリストでもあります。ヨーロッパでは名声を得たようですが、それに飽き足らず日本に来て、なぜかキャリア・デザインの講師になっています。

この本は、ひと言で言えば「ほんとうの自分を見つけるためのメソッド」の本。「形にとらわれず自分らしさをみつけるために勇気をもとう」ということで、フランス出身の著者から観た「ここがおかしいニッポン」的な指摘は、目新しいものではありませんが、でもいまさらながら大きく納得させられます(大会社に勤めていても安泰じゃない今の時代だからこそだと思いますが)。

秀逸なのは、リズムの重要視。「体は水でできているから、体を硬くせず、振動を意識しよう」という視点のもとに、簡単な運動を推奨しています。あと、自分の感覚を磨くためには、リズムが重要、と3拍子のリズムでひざを叩くエクササイズも載せています。簡単なリズムをくりかえし刻むと、本来の自分の感覚につながることができるそうです。もちろん生活も自分のリズムを決めることを推奨しています。このあたりは音楽家ならではの視点ですが、シュタイナーもリズムの繰り返しの重要性を何度も何度も書いているので、やっぱりそうかと思った次第。私は不規則にだらだら生活してしまっているので大反省。

不満があるとしたら、「マンガがあるから日本人は夢見がちだ」っていうステレオタイプな批判かなー。いまどきマンガを現実と間違える人はいまい。いや、元からそんな人はそうそういなかったんですよ。だって現実がガチガチだから、そこから抜け出すためにファンタジーとしてのマンガやアニメが発達したわけで。マンガがなぜか現実にすりよるようになったこの数年、電車の中でマンガを読む人の姿は極端に減ったではありませんか。私は日常を生き抜く力はむしろファンタジーや芸術など非日常的なものへの健全な憧れからくると思っているので。

ま、それはいいとして。一読の価値あります!

「必要なのはお金ではなく、心地よいライフスタイル」という著者の言葉に私も賛同しますが、結局、成功というのは、他人の尺度をまったく超えて、「自分になる」ことなんでしょうね。スパッとまとめてくれるフレーズが下に。

404 Blog Not Found / 負け組と勝ち組の三つの違い

「負け組は勝ち組になりたがる。勝ち組は自分になりたがる」

勝ち負けはともかく、今生のうちに「自分になる」ことを達成したいです。まだ実感ない、ってことは負け組?

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ほんとうの望みの探し方

結構、ほんとうに望んでいることを見つけるのって難しいですね。

以前望みを100個書き出すワークをやったのですが(過去ブログ参照)、本当にこれ望んでいるのかいな、っていうことが意外に多いのです。

たとえばお金について。
なんとなく「年収1億円」とか書いてみたのですが、それをほんとうに望んでいてほんとうにそのために努力できるかというと、たぶんそうでもありません(単に感覚的に想像もつかないというのもあるが)。

じっとにらんでいるうちに、具体的な数字よりも、「お金に困るのはイヤだ」という意味と気がつきました。「必要なお金(生活でも、仕事でも、なにか事業を起こすのでも)が苦労しないで入ってくる」ということかと。
数字は適当(ゆかしに入れそうな額を想定^^;)だったので、あまりそれに執着をもてないというか、実感がないのです。

夢を叶えるには、
1)何を望んでいるのか(モノなのか、心の状態なのか?)
2)具体的な形にする(仕事、家庭、ライフスタイル、お金)
3)必要な行動にする

このことって自己啓発本などでも何万回も書かれていることだと思いますが、結構難しいですね(難しく考えすぎ?)
お金自体を望んでいるなら金額でもいいのですが、そうでないならば、何をしたいのか、具体的に想定して、ほんとうにそれにフィットする額を想定しないといけませんね。

でもとにかく1)ありき。この時点では具体的でなくても。心の状態でもいいと思います。むしろそのほうが大事かな。
たとえば「ラクにくらしたい」なら、「どうだとラクなのか?」をできるだけ具体的に。ラクは「頭脳・肉体労働が少ない」なのか「長い通勤がない」なのか「お金に困らない」なのか。このへんをやっていくと自分でもわかっていなかった望みが見えたりしますよね。
あと、2)までは遠慮せず書き出してみる。「こんなの無理よね」と思わないで。2)まではタダですから。とにかく本当に望むことまでたどりつく練習です。

ほんとうに難しいのは3)とはいえ、1)が間違うとドミノ倒しで間違ってかえって夢から遠ざかるので、やはり大事なのは1)だと思います。
私も遠ざかりまくりー。欲は多いのに、夢と理想は少なくてなさけない!
自分でももう1回やってみようと思います。

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うつの人ほど潜在能力が大きい?

最近、うつになる人ほど実は潜在的な能力(ポテンシャル)が高いのではないかと思えてなりません。

なぜかというと、ほんとに自我が弱い人はうつになれないからです。うつになるほど考え込めない、というか。

ばねを考えてみましょう。強くて硬いばねほど、縮めたとき指にくる抵抗は大きいですよね。指に食い込んでくるような感じで痛いです。しかし押さえつけた指を外すと、ぽーんと大きくはねます。それはやわやわのばねより、反動でずっと飛びます。
うつになる人って、この硬いばねみたいなものかと。押さえつけられていて苦しい。しかしそれが外れれば大きく飛べる力がある。
問題は、自分を押さえつけているのは、実はご本人自身であることです(ご本人は周囲だと思っているのですが)。ここが自覚できれば、もう回復に向かっています。

うつから回復すると、「もう無理はできませんね・・・」とみなさんおっしゃいます。たしかに無理はすべきでないと思います。しかしそれは「人生を縮小する」ということでは必ずしもありません。むしろ、エネルギーを自分のやりたいことのほう「だけ」にうまく使う、ということです。ここらへん、もったいない!と感じること多し。

「今日もゴハンがウマい!幸せ!」という考えない人のほうが「幸せ度」は高いかもしれません。それはそれでとても素敵なことです。しかし、うつからうまく回復すると、周囲に惑わされず、自分の人生を生きられるようになる、と私は思っています。

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